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ノート・『裸の夏』  岡部憲治

麿赤兒を知ったのは、大島渚の映画「新宿泥棒日記」(1969年)からである。
映画の中の劇中劇として唐十郎の状況劇場の『由比正雪』があり、それに若き日の麿赤兒が出演していた。その後、1971年の『あれからのジョン・シルバー』を最後に唐十郎の下を去り、翌72年に大駱駝艦を立ち上げた。それ以降の麿赤兒と大駱駝艦の活躍を意識はしていたが、何故か舞台は観ていなかった。80年代の半ばに一度友人に連れられ、梁山泊の様な豊玉伽藍(稽古場兼住居)に深夜酒を飲みに行った事ぐらいが接点であった。

時は経ち、1993年、晴海の特設会場で『雨月~昇天する地獄』を観た。
初めて観た大駱駝艦の舞踏に圧倒された。そのスペクタクル性は言うに及ばず、過酷なまで肉体と向き合う麿赤兒の演出手法に身体が震撼させられた。
爾来、大駱駝艦の舞台は欠かさず観ている。
舞踏と言う摩訶不思議な身体表現の魅力に取り憑かれた。いや、所謂舞踏全般ではなく、麿赤兒の麿舞踏にである。

より深く足を踏み入れる発端となったのが、2002年の夏から始まった白馬合宿を観に行き、テスト撮影を行なった事からである。たった一週間の合宿で、麿赤兒の舞踏理論とその表現が、合宿生たちの身体に植え付けられ、大自然に抱かれた野外舞台で金粉ショーが展開される。まさに麿赤兒の魔法である。

麿赤兒の舞踏とは、その身体表現とは、その原点は何処から来ているのか、何故あれほど迄に肉体にこだわるのか、30年以上も大駱駝艦を続けて麿赤兒は、何処に向かおうとしているのか、知りたいと思った、探って見たいと思った。多分、この大駱駝艦の夏合宿にその答えがあるのだと想像した。麿赤兒の舞踏菌が蒔かれる一週間と、それが若者たちの身体の中で育って行く過程を撮影する事により、答えが出て来ると考えた。

結果は如何に。
このドキュメンタリーを観た人々の身体の中に、その答えの一部でもが、存在し始める事を期待したい。

この夏合宿の撮影は2002年のテスト撮影、2003年の本番撮影、2004年のエンディング撮影と3年間に及んだ。 麿赤兒と大駱駝艦に関するその他の撮影は、2002年1月の胃癌を克服した麿赤兒復帰第一作の独舞『川のホトリ』、2002年の30周年記念公演『泥芸者』、2003年のアメリカ公演『流婆』、京都公演『魂戯れ』、2004年の『海印の馬』、2005年の『AMA-ZONE』また吉祥寺の『壺中天』などを行って来ている。 また、2003年のニューヨークでは10時間に及ぶ麿赤兒インタビューも行った。 今回の『裸の夏』ではその一部しか使用していない。

麿赤兒の舞踏の扉は、この『裸の夏』で開かれたばかりである。
その深淵に立ち入る時、今後これらの映像が生かされる事があると思われる。